【この物語はフィクションであり、登場する人物、名称はすべて架空のものです。】 加藤 泉

プロローグ



東京代々木にあるジャズ音楽専門学校「JAZZ BEATS(ジャズ・ビーツ)」は、戦後日本の高度成長期から大競争時代に差掛かる1990年に設立された。
設立当時の校長はジャズピアニストの白石剛だったが、設立からわずか6年の1996年に校長の座を退いている。
白石は設立前から患っていた心臓病が悪化して、入退院を繰り返し、校長のデスクに座る事も難しくなってしまったのである。
今では、白石の弟子であったジャズピアニスト勝木知彦が継いでいる。
先代の白石はピアニストとしてはあまり際立った活躍もないまま、ジャズ音楽専門学校を設立するに至ったが、勝木の場合は実力派で、これまでに様々なジャズシーンで活躍していた。
勿論、白石門下の者は数多く居たが、勝木の実力と、そして人間性を見込み、「JAZZ BEATS」の次期校長として、抜擢する事を白石は以前から考えていた。
白石が勝木に次期校長候補である旨を告げた時、勝木は二つ返事で即答したという。
やはり、師匠である白石には敬服する気持ちが強かったのだろう。

勝木校長に代が変わり、初めての生徒が数多く入学して来た。
「JAZZ BEATS」にはピアノ科の他、サックス、トランペット、ギター、ウッドベース、ドラムスなど様々な学科があったが、ピアニストである勝木にとって、やはり注目していたのはピアノ科の生徒だった。
「どんな生徒が入学して来るのだろうか。」
勝木は、期待を膨らませていた。

入学当日、生徒たちはまず受付を済ませ、午後から実技の授業があった。
先生が生徒の技量を測るためである。
一人一人順番に、それぞれ得意な曲を演奏した。
「なかなか芯のある奴は居ないな…」
勝木は、苛立っていた。

途中10分の休憩があり、すぐに次からの生徒の演奏が始まった。
休憩後、二人目の生徒がジャズのスタンダード曲「チェロキー」を演奏した時、勝木は初めて胸の高鳴りを感じた。
「こいつは、いいかも知れないな…」

この曲は速いテンポで演奏する曲として有名だが、その速いテンポにも流されず、フレーズ一つ一つに繊細なアクセントがあり、インプロブゼイション全体の構成も完璧だった。
背は178cmはあるだろうか、清潔な感じの風貌といでたち。
温和な顔に、服装のセンスもなかなか良い。
演奏が終わった時、場内からは拍手が湧いた。
「君の名前は?」
勝木が尋ねると、その生徒は答えた。
「徳川大周です。」





徳川は「JAZZ BEATS」入学後、勝木校長直々の指導のもと、飛躍的にピアノの実力を上げて行った。
勝木は、専門学校校長としての充実感を味わっていた。
「本当に将来が楽しみな生徒だよ。」
勝木はいつも、他の教師に話していた。
周りの生徒達も、徳川の事は一目置く存在となっていた。

徳川大周は、1978年に東京の練馬区で4人兄妹の三男として生まれた。
2人の兄と一人の妹の間で育った大周は、15才の時に父親を交通事故で亡くし、兄2人がそれぞれ中学と高校出で就職をすると、中学に通いながら妹の面倒を見ていた。
母親の亮子は、そんな息子達の苦労もよそに、毎晩のように近所のスナックやバーに通う始末だった。
大周は6才からクラシックピアノを習っていたが、父親の死を境に辞めていた。
勿論経済的に厳しかったが、兄2人が働いているのに、自分だけピアノを習い続ける事は出来ないと思ったのだろう。
中学時代の大周は、厳しい生活の中でも、学校の成績は良かった。
自分がしっかりしなければ、周りから取り残されてしまうと感じていた。
小さい頃からピアノを弾いていた所為か、音楽感性もとても良く、音楽の成績も良かった。

ある日の放課後、徳川が音楽室に残ってピアノを弾いていると、音楽教師の乙部美津夫先生が入って来た。
「綺麗なピアノの音色が聞こえると思って来て見たら、徳川君だったんだね。わっはっは…」
気さくな感じの先生である。
「はい、すみません…。家のピアノ、調律してないもんで、音楽室のグランドピアノを弾きたくなって…」
徳川は、恐縮そうに言うと。
「そうだね。ピアノはちゃんと調律していないと、耳が悪くなってしまうからね。」
先生は、ピアノの鍵盤に目をやりながら言った。
「はい、すみません。」
徳川は、肩をすぼめた。
それから、乙部教師は、徳川の弾くピアノを微笑みながら聴いていた。


「そうだ。先生はこれからジャズ演奏のコンサートを聴きに行くんだけど、一緒に来ないか?」
乙部教師は、思い出した様に言った。




乙部教師に連れられて、電車を下りたのは中野駅だった。
北口を降りると、先生が指を指した。
「ほら、あそこだよ。」
とても大きな建物に見えた。
「ここが有名な、ムーンプラザか…」



開演前は、人の声がガヤガヤ煩かった。
たった15分の間だったが、とても長く感じた。
ステージにはコンサートピアノと、ウッドベースとドラムスが置いてある。
「これから、どんな事が起きるんだろう…」

一斉に拍手が湧き起こった。
それと同時に、さっきまで煩かった人の声が、一瞬にして止んだ。
3人の演奏家が、それぞれの楽器の場所に移った。
ベース奏者がボンボンと音を鳴らしてチューニングをしている。
そして、次の瞬間、今まで聴いた事のないサウンドがコンサート会場内に響き渡った。
「すごいビート感だ…」
徳川は、ピアニストの指ばかりを目で追っていた。


全曲の演奏が終わり、3人の演奏家はステージの袖に消えて行った。
拍手が鳴り止まない。
1分間か2分間、拍手だけの時間があった。
いきなり一人の人が指笛を鳴らした。
それと同時に、今まで大きなテンポの拍手だったのに、急に細かいテンポの拍手に変わった。
周りの人達は、みんな興奮しているように見える。
3人の奏者が、再び登場した。
「そうか、アンコールだ。」

パチパチと残った拍手に混じって、かすかにアナウンスが聞こえた。
「The next tune is my favorites.... Cherokee.....(次の曲は、私のお気に入りの、チェロキーをお送りします。)」








               


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