1998年9月、まだ照りつける残暑が続いていた。
ブラインドの隙間から差す夕暮れ時の斜光が眩しい。
勝木はぼんやりと、その斜光の差す方向を眺めていた。
「校長、まだ昼食をとられていませんよね。どうなさいますか?」
秘書の清水紀香は言った。
勝木は「はっ」として紀香の方を見たが、何と言われたのか聞き逃してしまった。
「え?もう一度言ってくれないかな。」
勝木が尋ねた。
「勝木校長先生は、まだお昼ご飯をとられていませんけど…」
秘書の紀香がそこまで言い掛けたところで、勝木は、「そうだったね。ちょっと考え事をしていたから、食べ損なってしまったなあ。」と言った。
「そうだ、これから一緒に食事に行かないか? 赤坂でイタリアンの美味しいお店を知っているんだ。」
勝木が誘うと、紀香は「あら、校長が誘ってくれるなんて、珍しいわね。では、宜しくお願いしまーす!」と明るく答えた。

清水紀香は24才。身長は165cmくらいで痩せ方、性格は明るく穏やかだ。年頃の女性らしく、ファッション雑誌と旅行パンフレットにはいつも頓着しているようだ。
彼女が、ここ「JAZZ BEATS」の秘書をする切っ掛けとなったのは、2年前に前校長の白石が退陣した時、その白石の推薦で、大学を卒業したばかりの紀香が入って来たのだ。
同時期に校長として後任の座に着いた勝木は、就任したばかりの不慣れな自分に対し、献身的なまでに身の回りの仕事をしてくれる紀香に大層喜んだ。
「雑務はすべて彼女がこなしてくれる…、本当に有り難いものだ。」
勝木はいつも、そう思っていた。


地下鉄の赤坂見附駅を降りた時は、もう既に夜7時を過ぎていた。
「ああ、本当にお腹が空いたな…」
勝木は、腕時計にちらっと目をやり、そう言った。
紀香は、外を見ている。
道を走る車の音で勝木の声はかき消されたようだ。

赤坂見附駅から一ツ木通りを過ぎて、円通寺に向かう途中にそのレストランはあった。
あまり目立たない看板だが「RISTORANTE BIANCA (リストランテ・ビアンカ)」と書いてあった。
古木を使った重いドアを開けると、細い階段があった。
「なんか、隠れ家チックで良い感じですね。」
紀香は期待を膨らませた口調で言った。
「いや、一度連れて来たいと思っていたんだよ。」
と、階段を降りる足元を見ながら勝木は言った。

店内の殆どが木で造られている。
天上も、床も、テーブルも、すべて古木で造られている。
照明は天上を揺らすキャンドルが各テーブルに一つづつあって、その他は殆ど間接照明だ。
「こんなお洒落なお店、いつも誰と来るんですか?」
と紀香が冷やかした口調で尋ねると、勝木は、
「いや、とっておきの人としか来ないよ。」
と言って笑った。


それから、勝木と紀香はいろいろな話をした。
でも紀香は、その会話の中で「なぜ今日、校長は私をここへ誘ったのだろう…」と、ずっと考えていた。









夜8時を過ぎた頃「RISTORANTE BIANCA(リストランテ・ビアンカ)」の店内は満席となっていた。
料理はとても美味しく、また、ワインも格別だった。
「このワイン、とっても美味しいですね。なんて言うワインなんですか?」
紀香が尋ねると、勝木は、
「バスティアーニ・クントゥラーリ・ティーポ クワットロと言ってね。年産1500本という極少量しか造られない、とても珍しいワインなんだよ。」
と、少し得意げな顔をして言った。
「えっ…、っていう事は、私は、その1500本の中の1本を今飲んでいるんですね!
校長はいつもこんな高いワインを飲むんですか?」と、紀香がボトルを見ながら驚いた口調で言うと、空かさず、勝木はそのワインボトルを手にとり、「いや…、いつも高いワインばかり飲んでいるわけではないよ。」
そして、少し間を置いて、
「とっておきの人と一緒に食事をした時だけね・・・・」と、うつむきながら小声で言った。


1分ほど沈黙が続いた。
勝木は天上を見上げている。


「あら、天上にこんな素敵な絵が描かれてあったんですね!」
紀香が天上に描かれてあるドーム型のフレスコ画に気がつき、沈黙を破った。
「・・・・あ、そうだね。間接照明で一瞬目立たないけど、・・・・この絵はとても素晴らしいね。」
勝木は、間が持たないと言った感じで、天上から目を離さずに言った。
紀香は、その勝木の天上を見上げる顔を見つめていた。


「看板も目立たないのに、よく見つけてお客が来るものだな…」
と勝木は周りのお客の方へ目をやった後、すぐに紀香の方へ顔を向け、また小声で言った。
すると紀香は「あら、そのお客さんの一人は勝木校長先生ではないですか?」
と、クスクスと笑いながら言った。
「あはは、本当にその通りだね…」
勝木がワイングラスに手を添えながら、大声で笑った。

その勝木の笑った表情に、ちょっと嬉しく思いながらも、紀香は勝木に秘めた曇りを感じていた…
「今日の校長は、何かいつもと違う気がする…」
と思っていた。
笑ったと思うと、うつむいたり、そうかと思えば天井を見上げたり、本当に落ち着きがなかった。



「校長…、今夜は、本当は何かお話があって、私を誘ったのではないんですか?」
紀香はたまり切れずに言った。

「えっ・・・・、あ、ああ・・・・、じつはそうなんだ。」
勝木は不意を突かれ、口ごもった。
勝木は続けた。
「ピアノ科の徳川君の事なんだけど…」
勝木が言うと、すかさず紀香が口を挟んだ。
「徳川君って、あの徳川君ですよね。」
紀香は解り切った口調で言った。
「徳川君が、どうかしたんですか?」
紀香が続けると、
「そうなんだ…、じつはね。最近、徳川君の事でちょっと悩んでいるんだけど・・・・」
勝木の声が急に小声になった。
勝木は続けた、
「彼ね、最近、どうやら彼女が出来たらしいと生徒達の間では噂になっているんだけど、君はその噂知ってる? 最近の彼はどうも練習もあまりやって来ないし、実際、ピアノの実力もかなり下がってしまった気がするんだ。」
勝木は、またワイングラスを見つめながら言った。
「徳川君、そうなんですか…。徳川君と言えば、入学時からとても実力があって、校長も可愛がっている生徒さんですよね。彼女がいるという噂は聞いていませんでしたけど・・・・」
紀香もワイングラスに目をやりながら言った。
勝木は、自分のワイングラスと紀香のワイングラスに交互に目をやり、
「そうか・・・・。じつは、彼と親しい生徒に聞いても知らないと言うし、実際どうなんだろうね。」
と言うと、紀香は「校長・・・・、でも、生徒だって、いくら勉強中と言っても恋ぐらいしますよ。あまりプライベートの事まで探索しない方がいいと思いますけど・・・・」と、勝木の方を向き、言った。
「ああ、そうだね・・・・。でも、彼はとても才能があると思うから、僕はつい気にしてしまうんだ。いけないと思っているんだけど。あはは・・・・」と、勝木は照れ笑いをしながらハンカチを額にあてた。


時計の針は、夜9時半を回っていた。
紀香は、バッグから携帯電話を取り出し、ディスプレイを見ている。
それを見て、勝木が、「あ、そうか、ここは地下だから電波が届かないよね。」と、申し訳なさそうに言うと、
「あ、メールなんです。着信来ているかも知れないので、ちょっと外に出て来て良いですか?」と紀香が言って、すぐに席を立った。

その間、勝木は自分のグラスに残っているワインを飲み干し、注いで、またグラス半分程飲んだ。
そして、ふうーっとため息をついて、お店の入口の階段の方に目を移し、慌てて、またテーブルの方を見なおした。

1分程経って、紀香は帰って来た。
紀香は携帯電話を見ながら、「お母さんから『今どこ?』とか、メールが来るんだけど、早く返信しないと心配するんです。」と苦笑いしながら言った。
「あ、そうか、最近生徒達も皆やってるね…、携帯メールってやつか。最近は携帯電話でもメールが出来るんだから、本当、便利な世の中になったもんだね。」
勝木も苦笑しながら言うと、
「でも携帯のメールって便利だけど、私の場合、いつもお母さんに縛られているみたいで結構嫌だなーって思う時ありますよー」
紀香は続けた、「あ、でも、一日誰からも全然着信ないと寂しいんだけど・・・・。人間って、勝手ですよね。ふふふ・・・・」と微笑みを浮かべながら言った。
「それじゃ、僕みたいに仕事にいつも追われている人間が使ったら、頭がパンクしてしまうね。はっはは・・・・」
勝木は、お店中響き渡る程の声で笑った。

勝木は、自分の笑い声の大きさに気づき、ハッとして、急に小声になった。
「いやー参った。少々、酔っ払ってしまったのかも知れないな。それでは、お母さんも心配するだろうから、そろそろ帰ろうか。」
勝木は顔をほころばせながら言った。




お店を出た時は、ちょうど夜10時になるところだった。
赤坂の夜景は、相変わらず綺麗だった。
沢山のタクシーが、道を貫いている。
勝木は駅に行く途中でタクシーを呼び、紀香を乗せて、自宅まで向かうように運転手に告げ、お金を渡した。
「じゃ、また明日ね。」
勝木は、電車で帰った。




赤坂からタクシーで帰った紀香は、そのタクシーの中から電話をした。

「・・・・徳川君? なかなか電話出来なくてごめんね。今どうしてるの・・・・?」






                 


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