「ああ・・・、いつの間にか寝ていたよ・・・・、えーと、今何時・・・・?」
徳川は眠そうな声で言った。
「あっ・・・、寝ていたんだね。起こしてしまって、ごめんなさい・・・」
紀香が申し訳なさそうに言って、すぐに続けた。
「あ、今ね・・・、10時10分よ。本当に、ごめんね・・・」
紀香は更に申し訳なさそうに、小声で言うと、
「えっ・・・、もう10時過ぎか・・・、ちょっと寝すぎてしまったなあ。起こしてくれて良かったよ。ありがとう!」
徳川は眠気を跳ね除けるように、強い口調で言った。
その言葉を聞いた紀香は、少し安心したように、
「あ、じゃあ、電話して良かったわね。うふふ・・・」
と言って笑った。
「そうそう、さっきね・・・、えーと何時頃だったかな・・・、電話したんだよ。」
徳川は続けた。
「・・・・あ、そうだ。ちょうどテレビのニュースを観た後だったから、8時頃だったかな。圏外だったみたいで繋がらなかったよ。」
「あ、徳川君、電話してくれていたんだ・・・。ごめんね。ちょっと地下に入ってたから・・・・。」
紀香は、また恐縮そうに言うと、慌てた口調で続けた。
「あっ、私もね、さっきメールしたんだよ。そうそう、9時過ぎ・・・、じゃなかった、そうだ、9時半過ぎだったかな。」
「あ、そうだったんだ・・・、ちょっと待っててね。」
徳川はそう言うと、携帯電話のディスプレイを見て、
「あっほんとだ。寝ていたから気がつかなかったよ。ごめんね。」
と言った。
メールを見ると、「後で電話するね。」と書かれてあった。

「なーんだ。僕は寝てるし、紀香さんは圏外に居るし、それじゃ繋がる訳ないよね。わっはっは!」
徳川は、軽快に笑った。
「あ、ところで、地下って、何処に行っていたの?」
徳川のその言葉に、紀香はハッとした。
「あ、あのね。じつはね。勝木校長に食事を誘われて、行っていたの・・・」
徳川の顔が一瞬曇った。
「あ、そうだったんだ。」
徳川は、その一瞬の気持ちの陰りを隠し、言葉には出さなかった。
だが、紀香には、徳川の曇った顔が、すぐ目の前に見えているように感じていた。

「校長ね、何か話があったみたい。」
紀香もまた、その気持ちを悟られまいと、明るい口調で続けた。
「でも結局、時間も遅くなっちゃったし、本題に移る前に帰って来たんだけどね。というか、どれが本題だったか分からないけど。」
紀香は話を濁した。
「で、どんなお店に入ったの?美味しかった?」
徳川が言うと、
「えーとね。イタリアンでね・・・・」
と紀香が言いかけた所で、タクシーの運転手が二人の会話を遮った。
「お客さん、次の信号は左でいいのかな?」
「は、はい。そうです。左へ曲がって、えーと、その次の信号の辺りで降ります。」
紀香は慌てた口調で言い、すぐに携帯電話に耳をあてた。
「あ、徳川君?もうお家に着いちゃったから、また今度話すね。ごめんね。」
紀香がそう言うと、
「あー、結構長く話しちゃったね。僕はこれからバイトに行って来るよ。じゃ、またね。」
徳川は、明るく言った。
「バイト頑張ってね。それじゃ、またね。」
電話を切った。



徳川は腕時計に目をやり、慌てた。
「ヤバイ。急がなくちゃ・・・・」
徳川は急いで着替えると、茶色い皮製のカバンを肩に掛け、6畳の部屋を小走りに走り、玄関を出て行った。



徳川は、東京の板橋区にある、大谷口という所でアパート暮らしをしていた。
古い安アパートだが、近くに音大があり、ピアノ可の場所も多かった。
大概はピアノ可の場合、マンションしかないのだが、このアパートの周りは工場地帯で、住宅も密集していない為、音楽好きの大家が防音設備をして、音大生の為に貸していた。
徳川は音大生ではなかったが、プロのジャズピアニストを志しているのだと言う事を大家に熱く語ると、すぐに了解を得る事が出来た。
大家は一見頑固オヤジ風だが、学生達には面倒が良かった。

徳川にとって、安アパート暮らしと言っても、専門学校の学費を稼ぐ為には容易ではなかった。
本当は、昼間のアルバイトを捜していたが、やはり稼ぐ為には夜間のアルバイトをやるしかなかった。
徳川は、このアパートで一人暮らしを始めた頃、初めは中学校の夜間警備のアルバイトをしていたが、警備の合間にこっそりと音楽室に忍び込んでピアノを弾いていた事が見つかりクビになってしまった。

今は、アパートから自転車で20分程の、池袋駅の近くの居酒屋で働いている。
夜間警備の仕事の時は、30分ごとに校内の見回りをするだけの仕事内容だったので、他の時間はピアノを弾いたり、待機室でジャズ理論の勉強をしたりしていた。
それが今では、ピアノを弾く時間も、理論を勉強する時間も極端に減ってしまった。
勝木校長が「徳川は最近、学力が下がっている。」と紀香に言っていた事は、これが理由だった。
そして、毎日の夜間のアルバイトに、かなり疲れていた。




「すみません。遅刻しました・・・・」
徳川が、肩をすくめながら居酒屋の店長に言った。
店内も厨房も、ごった返している。
お客の大きな笑い声で、徳川の声がかき消された。
店長は、気づいていない。
「店長。すみません!遅刻しました。」
徳川がもう一度、今度は大きな声で言うと、
「ああ徳川か。忙しいんだから、そんな所に突っ立ってないで、早く着替えて、今日はカウンターに入ってくれ。」
店長の口調は静かだが、厳しかった。
「はい、すみません!」
徳川は、頭を下げながら、小走りに、従業員控室に向かった。
そして、着替えて店内のカウンターに入った。


徳川がアルバイトをしているこのお店は「クーリーズ」と言う名前で、居酒屋と言っても、広いバーカウンターがあり、内装も南国風で統一され、若者の集まるとてもお洒落なお店だった。
各テーブルも、やしの木の皮を縫い合わせて作られた仕切りがあって、とても落ち着く雰囲気だ。
そして、店内を流れる音は、音楽ではなく、ずっと、さざ波の音が流れている。
徳川は、仕事として厳しくても、そのお店の雰囲気はとても気に入っていた。



「今日は金曜日だから、さすがに混んでいるなあ・・・」
徳川は、つぶやいた。すると、
「おう!徳川君じゃないか。頑張ってるか?」
と、声を掛けられた。
振り向くと、常連客の桜崎勇夫がカウンター越しで、笑いながらこちらを見ている。
「あ、桜崎さん、お久しぶりです!」
徳川は、びっくりしたような表情をして言った。
「いやあ、なんとか頑張ってますよ。いつも店長に怒られてキツイですけど・・・」
急に小声になり、厨房の方にチラっと目をやり、また桜崎の方へ向き直った。
「頑張ってる・・・って、バイトじゃなくってさ。」
桜崎も小声になり、続けた、
「バイトなんて、どうでも良いけど、ピアノは頑張ってるのかな?と聞いたんだよ。」
桜崎が笑いながら言うと、
「あー、ピアノの事だったんですね。ピアノもなんとか頑張っていますよ。」
徳川はそう言い、更に続けた、
「あ、でもね。専門学校通うのに、やっぱりお金も掛かるし、アパートの家賃もあるから、バイトも頑張らなくちゃいけないです。両立するのは難しいもんですね。」
すると、桜崎は同情するように、
「そうか、それは大変だね・・・」
そう言い、床に顔を向け、少し間を空けてから、また徳川の方へ向き、続けた、
「ま、若いうちの苦労は金を払ってでもしろと言うから、頑張って欲しいけど・・・、でも、あまり無理をして身体を壊さないようにね。」
と言った。
その顔には、徳川を思いやる気持ちが表れていた。
徳川は、桜崎のその表情を感じ取り、すぐに言った。
「あ、でも、専門学校に通う生徒は、皆そうやって頑張っていますから。僕も頑張りますよ。桜崎さん、心配して頂いて、ありがとうございます・・・」
徳川が恐縮して言うと、
「君のピアノは評判だからね。本当に応援しているよ。」
笑いながら桜崎は言い、少し間を空けて、続けた、
「・・・・そうだ。今度、徳川君の演奏を聴いてみたいね。何処かで聞く事は出来ないかな?」
「あ、僕の演奏ですか? えーと、僕はライブをまだやっていないんですよ・・・。でも、再来週の日曜日に、先輩のライブを聴きに行くんですが、その時に一曲だけピアノを弾かせて頂く事になっているので、もし桜崎さんのご都合が宜しかったら、その時に来て頂けると嬉しいんですが・・・」
徳川がそう言うと、桜崎はすぐに、
「場所は、何処?」
と聞いた。
「えーと、恵比寿なんですが・・・、あ、いま地図を書きますね。」
徳川はそう言いながら、レジカウンターに行き、メモ用紙とボールペンを持って来た。
徳川が行き方を説明しながら地図を書いている間、少し離れた場所から店長が見ていた。







                


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