桜崎勇夫は、東京京橋にある「株式会社・桜崎建築設計事務所」の社長であった。
年齢は、現在55歳。

彼は、東京にあるT大学建築学科を卒業すると、すぐに大手企業の「大日本建設株式会社」に就職し、その2年後に一級建築士の国家試験を受け、取得した。
そして桜崎は、「大日本建設株式会社」で培ったノウハウを生かし、15年後、「株式会社・桜崎建築設計事務所」を設立するに至った。
会社設立当時は、まだ若干32歳だったので、周りの者からは青年実業家と騒がれていた。
 
 
今日は土曜日だと言うのに、桜崎は残された書類整理に追われ、休日出勤をして夜遅くまで会社で働いていた。
来春から着工予定のビル建設の為に、何百枚とある設計図の整理をしているのだ。
 
昔は設計図を書く為に、T定規、または、ドラフターと呼ばれる定規のついた机を使って手書きで行われていたのだが、近年では殆どがCAD(キャド)と呼ばれるシステムにより、設計、デザイン、プレゼンテーションに活躍する3D画像映像など、あらゆる工程がコンピュータ化された。
桜崎は、そのシステムをいち早く取り入れ、会社を飛躍させて行った。
その決断力と行動力は、どの社員からも尊敬されるところであった。
 
 
「社長・・・、一階フロントの設計図は、この棚の中に入れて置きます。」
社員の条之内綾子が言った。
「ああ、もう一階部分は整理したんだね。なかなか早いじゃないか。」
桜崎は、満足気に言った。
「そうですね。今日のところは、もうすぐ一段落しそうです。残りは私達でやって置きますので、社長はお先に帰られたら如何でしょうか?」
そばで作業をしていた中年社員の高柳俊祐が、気を使い、そう言った。
すると、他の社員達も同調して、
「そうですよ。社長はこのところ連日残業していますから。お早めに帰られて、明日はゆっくりとお休みになって下さい。」
と、言った。
「そうか・・・、みんな悪いね・・・、確かに最近残業続きで疲れ気味だからなあ・・・、みんなに甘えさせて貰って、今日はお先に失礼しようかな。」
と、桜崎が言い、時計に目をやった。

10時を過ぎていた。
 
 
 
桜崎は、京橋駅から地下鉄に乗り、高田馬場経由で目白の自宅に向かった。
駅前は大分前からやっている道路工事の音で、落ち着きがない。
桜崎は、駅前のコンビニエンス・ストアーに寄り、弁当を買った。
そして、目白通りを少し歩き、ちょっと路地を入ると、急にその雑音は消えた。
路地に入り、8分程歩いた所に桜崎の自宅があった。
 
家に入り、背広をハンガーに掛け、ネクタイも掛けて、そのままバスルームに向かった。
バスルームは、蒸気で一瞬前が見えなかった。
妻の百合子が、桜崎が帰る時間を見計らって、お湯を入れていたのだ。
湯に浸かると、一週間の疲れが体中から抜けていくように感じた。
「ふう〜・・・」
桜崎は、ため息をついた。
 
 
 
「明日は、徳川君の演奏を聴く日だったな・・・」
そう、桜崎は小声でつぶやきながら、台所の冷蔵庫に向かった。
冷凍室から氷を取り出し、グラスに入れた。
ダイニングルームに行き、目の前の棚から、お気に入りのスコッチ・ウイスキーを取り出し、そのグラスに注いだ。
「コッコッコッ・・・」という、ウイスキーを注ぐ音が部屋中に響いた。
 
「ガチャ・・・」
ドアが開いた。
「あら、もう帰っていたのね。全然気がつかなかったわ。二階でちょっと、うとうとと寝てしまって・・・」
と、妻の百合子が恐縮そうに髪を撫でながら入って来た。
「ああ、たぶん、もう寝ているんだろうと思ってさ。静かに入って来たからね。」
桜崎は、いつも妻を思いやっていた。
「そうそう、途中で弁当を買って来たよ。今日の夜食はいらないからね。」
「あなた、本当に優しいのね・・・・。でも、私はちょっと寝たし、明日はお休みですもの、すぐに寝なくても大丈夫ですよ。今、簡単なおつまみ、作りますね。」
と、百合子は言い、台所に立ってフライパンに火を通した。
カタカタと、フライパンがコンロに当たる音がする。
「ああ、本当にいいのに・・・。悪いね。」
と、桜崎は言って、百合子の背中を見つめた。
「本当に、良い女房を貰ったものだな・・・」
桜崎は、心の中でつぶやいた。
 
 
 
 
 
明朝、桜崎は休日にしては珍しく、7時に起きた。
布団を剥いで目覚まし時計を手にとり、時計の針に目をやった。
「ん・・・7時か・・・。あー、もっと眠っていたかったのに・・・。目が覚めてしまったなあ・・・・」
と、眠そうな声で言った。
目覚まし時計は、10時にセットされている。
桜崎は目を瞑り、考えていた。
「このまま起きてしまおうか・・・・。それとも、10時まで寝ようか・・・」

1分が過ぎた。
 
 
桜崎は、布団を肩までかけ、丸くなった。
 
 
 
 




               


inserted by FC2 system