その日、徳川は午前中からピアノに向かったままだった。
「今日は、自分の力を皆に評価して貰うチャンスの日なんだ・・・。頑張らなくては・・・。」
そう自分に言い聞かせていた。

1時間が過ぎ、そして、2時間が過ぎた。

徳川は、ずっと集中してピアノを練習していた。
 


「プルルルル・・・・」

携帯電話のベルが鳴った。

「もしもし・・・」
徳川が電話に出ると、明るい声が聴こえて来た。
「徳川君? 紀香よ。今、ピアノの練習中よね?」

「うん、そうだけど・・・、なんで?」

「だって、今日は大事な日でしょ? だから、ちょっと、励ましたいなあと思って・・・。」

「あー・・・・、どうもありがとう。なんとか順調にやってるよ。」
徳川は、孤独な世界から開放されたように、ため息をついてから、言った。
その、ため息を聞いて紀香が、
「あ、ごめんなさい。練習中だと知っていて電話するなんて、私、最低よね・・・。だけど・・・」
と、言い掛けたところで、徳川が、
「あ、気にしないでね。今ちょうど、一休みしようと思っていたところだったんだよ。ほんと、気にしないで・・・。」
と、包み込むような優しい声で言った。
すると、その徳川の声を遮るように、
「あ、だけどね!でも、徳川君を励ましたいなあという気持ちが勝ってしまって・・・」
と、紀香は、少し強い口調で言い、そして続けた。
「だって、徳川君、最近、バイト忙しくて、あまり練習出来なかったでしょう? だから、凄く心配で・・・。」


紀香のその言葉を聞いて、徳川の胸は熱くなった。


「あ、ああ・・・、僕は大丈夫だよ。ほんと、心配しないで・・・・。本当、大丈夫だから・・・。最近、ピアノ、とても調子いいよ・・・・。」

徳川は、少し落ち着きなく声を発してしまった。
その自分の気持ちの動揺を抑えようと、呼吸を整えて、続けた。
「じつは、この一週間、何故かバイトの上がり時間が早かったんだよ。だから、練習も思うように出来たんだよ。ほんと、ラッキーだったなあと思うよ。」
その言葉に、
「なーんだ!心配して、損しちゃった! だって徳川君ったら、最近忙しい忙しい、って言うから、てっきりバイトで忙しいのかと思っちゃった。 それなら、そう言ってくれれば良かったのに・・・」
紀香は、少々怒った口調で言った。
「あ・・・、ご、ごめん・・・・。そうだ。言っていなかったね。 でも、バイト早く上がると、それだけ給料も減っちゃうから、紀香さんに返って心配掛けてしまうかな・・・と、思ったんだけど・・・。」


先ほどの紀香の優しい言葉に徳川は酔いしれて、心が温かくなったのも束の間、二人の会話は緊迫した。


「徳川君、何でそんな事を言うの? お金も大事だけど、徳川君がピアノだめになったら、元も子もないじゃない!」
その紀香の言葉に、徳川は息を詰まらせた。


「あ・・・、だから、この一週間、ピアノに没頭してたんだけどな・・・。」
徳川が、苦し紛れにやっと言葉を発した。



「もういいわ。じゃあね。」
紀香は、そう言い、電話を切った。





徳川は、携帯電話に耳を当てたまま、しばらく呆然としていた。



「このままでは、ピアノに集中出来ない・・・。今日の演奏は、もう駄目だ・・・・。」
そう、つぶやき、携帯電話を机に置いた。



そのまま、無言でピアノの蓋を閉めた。








               


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