その日の午後、桜崎勇夫は妻の百合子を連れて、銀座で買い物をした後、四谷三丁目に行った。
桜崎は休日になると、いつものように妻を連れ出し、食事に誘った。
「今日は、美味しいフグ料理を食べに行こう!」
桜崎は、家を出る前から妻にそう言っていた。
 
 
四谷三丁目駅を出て、目の前の交差点を渡り、少し歩いたところの小さな路地に入った。
周りは、寿司屋、洋食屋、そして、まだ時間前で開いていないバーなどが点々とあった。
「こんな小さな路地に、美味しそうなお店が沢山あるんですね?」
百合子は、珍しそうにキョロキョロと辺りを見回している。

「えーとね、この道を曲がったところに・・・」
桜崎がそう言うと、すぐそこにお目当てのフグ料理店があった。
 
店の入り口は純日本風で、いかにも老舗といった感じがする。
小さなのれんをくぐり中へ入ると、六畳ほどの座敷が二つあり、こじんまりとしていて、古き良き東京の香りがする。
桜崎は、店に入るとすぐに、
「予約していた桜崎ですが・・・。」
と言った。

一週間の仕事の疲れで、本当は家でゴロゴロとしていたいのが心情である。
しかし桜崎は、妻をこよなく愛し、休日の家族サービスは欠かさなかった。
 
 
二人は座布団に座り、くつろいだ。
しばらくして、料理が出てきた。
先ず、海苔の酢の物や、蟹、鯵のたたきなど、小さな皿に盛って出てきた。
その後、フグの刺身、から揚げ、フグちり鍋などが続く。
 
二人はビールを飲みながら、楽しい時間を過ごした。
 


「あ、もうこんな時間か・・・。そろそろ行かなくちゃ・・・。」
桜崎が腕時計に目をやり、そう言った。
「そうですね。ライブは8時からですものね。そろそろ行きましょうか。」
と、百合子も自分の腕時計を見ながら言った。
時計の針は、7時を回っていた。
 
 
二人は店を出て、四谷三丁目駅へ向かった。
先ほどまでシャッターが閉まっていたバーの看板の電気は、既に灯されている。
小さなバーの中から、人の笑い声が聞こえた。
路地は、さっきより人通りが多いように思えた。
 

と、その時、桜崎の携帯のベルが鳴った。
「プルルルル・・・・・。」
 
「はい。桜崎です。」
桜崎が、電話に出ると、慌てたような声が返って来た。
「社長ですか? あの、条之内ですけど!」
桜崎の建築設計事務所の、条之内綾子からだった。
 
「あ、条之内くん、どうしたの?慌てて・・・。」
桜崎の、その言葉が終わる前に、畳み掛けるように、条之内は言った。
「あの、大変なんです! 昨日あれから、夜中まで掛かって整理をしていたんですが、ビル設計図の7階部分の平面図が見当たらなくて・・・、えーと、今日も出勤して捜していたんですけれども、どうしても見当たらなくて・・・。あの・・・。」
条之内は、言葉の整理が出来ないまま、声を滑らすように言った。
 
桜崎の目じりが歪んだ。
「そ、そうか・・・・。困ったな・・・。」
 
「社長、すみません・・・。工程の中で、一回一回ちゃんとチェックしていたはずなのですが・・・。」
条之内は、今にも泣きそうだ。
 
「あ、そうそう、パソコンのハードディスクと・・・、フロッピーディスクにも保存したものがあるだろう?」
桜崎が言った。
すると、条之内は、声を震わせながら言った。
「あの・・・、じ、じつは、その部分だけ保存していなかったみたいなんです・・・・。どうしても見当たらないんです・・・・。」
 
「うーん・・・。」
桜崎は携帯電話を耳に当てたまま、天を仰いだ。
 
 
条之内は何もしゃべらない。
かなり動揺しているようだ。
 
 
 
その間、桜崎は考えていたが、ようやく声を発した。
「火災があった時に備えて、僕の家にコピーがあるんだけど・・・・、いや、じつはね、この事は社員には言っていなかったんだけどね。」
 
「あ・・・、本当ですか・・・?」
条之内は、聴き直した。
「うん。でも、それを言ってしまうと、社員が真剣に働かなくなってしまうからね。せっかく、最後の切り札として取って置いたんだけど、今回は仕方がないようだね。わっはっは・・・。」
桜崎は、そう言い、大きな声で笑った。
そして、すぐに続けた。
「あ、でも、くれぐれも他の社員には内緒だよ。」
桜崎が、そう言うと、条之内は安堵した声で言った。
「はい、分かりました。」
 
 
 
 
桜崎は、電話を切り、百合子に言った。
「仕事のことで、急用が出来てしまったから、今すぐに家に戻って、それから、また会社へ行かなければならなくなってしまったよ。」
 
「えっ? それでは、徳川さんの演奏、聴けないのですか・・・?」
百合子が言うと、桜崎はすぐに言った。
「分からない・・・。」
 
 
二人は、急ぎ足で駅に向かい、地下鉄に乗り、新宿経由で目白駅に着いた。
桜崎は焦っていた。
 
「ああ、こんな時に、なんで、こんな事になってしまうんだ・・・・。」
 
 
 
 
 




               


inserted by FC2 system