恵比寿にあるライブハウス「ローズウッド」は、その夜、満席だった。
夜8時からスタートしたライブは、1回目のステージが9時に終わり、ミュージシャン達は休憩に入っていた。
 
「おい、徳川。さっきの『オール・ザ・シングス・ユー・アー』のソロ、凄く良かったな!」
ジャズ音楽専門学校JAZZ BEATS(ジャズ・ビーツ)の、徳川の先輩のピアニスト、矢嶋誠一が、徳川の背中を叩きながら言った。
「あ、先輩・・・、どうもありがとうございます。先輩のお陰で、本当に良い経験になりました。」
徳川は、肩をすくめながら言った。
他のミュージシャン達も、口を揃えて徳川を褒め称えた。
 
だが徳川にとって、このステージは満足出来るものではなかった。
紀香との喧嘩が頭から離れず、実際、演奏に集中出来ていなかった。
「こんな事で、演奏に集中出来ないなんて・・・。」
徳永は、落ち込んでいた。
 
徳川は一人になりたいと思って、出口の方へ向かった。
お客の話し声は、不快なざわめきに聴こえた。
場内を流れるBGMも、雑音に聴こえた。
ただ、音のない所へ行きたかった。
 
徳川がちょうど出口のドアを開けて外へ出ようとした時、その雑音に混じって聴きなれた声が聴こえてきた。
「徳川くん・・・・。」
その声に反応して、徳川は後ろを振り向いた。
「あっ・・・。」
徳川は、そこに居る存在を、瞬間的に理解出来なかった・・・・。
 
「昼間は、わがまま言ってごめんね・・・・。」
紀香だった。
 
「あ・・・、ああ・・・・。」
徳川は一瞬、どう言葉を発して良いのか分からなくなった。
「あ、紀香さん・・・・。」
小さく息を吸い込み、そして続けた。
「来てくれていたんだね・・・・。スポットライトで、全然気がつかなかったよ・・・・。」
徳川の声に、力はなかった。
「ごめんなさい・・・。さっきの事、怒ってる?」
紀香は徳川の表情を見て、恐縮して言った。
「いや、怒っていないよ・・・・。だけど・・・。」
その言葉に、紀香は一瞬、間を置いて言った。
「だけど・・・?」
「あ、いや・・・、何でもないよ。来てくれてありがとう・・・・。」
徳川は、小声で言った。
「何でもない・・・って、何?教えて?」
「・・・・・。」
紀香が不安げな顔をして言ったが、徳川は黙っている。
 
「あ、徳川くん、今日の演奏、すっごく良かったよ!」
紀香が沈黙を破って、言った。
すると、徳川は、
「どうもありがとう・・・・。でも、ぜんぜん良くないんだ・・・・。」
と、言い残し、外へ出て行った。
「徳川くん・・・・。」
紀香の声は、届かなかった。
徳川は、すでに階段を昇っていた。
 
 
外は、意外と静かだった。
徳川は、恵比寿公園の方へ歩いて行った。
なだらかな坂道だが、足がとても重たく感じた。
公園の中に入り、ベンチに腰を下ろした。
通り過ぎるカップルが、うなだれた徳川の姿を横目で見ながら通り過ぎて行く。
時間を忘れて、ふと腕時計を見ると、もう9時30分を過ぎていた。
徳川は夜空を見上げて、ため息をついた。
月がとても高い位置に、白く輝いていた。
 
 
徳川はゆっくりとベンチから腰を上げ、そして、ゆっくりと歩き出した。
力のない足取りは、坂道を前のめりに足を運ばせた。
大通りに出て、ライブハウス「ローズウッド」の入口に着き、階段を降りようとした時、
階段の下に、人影が見えた。
だが、階段は途中で曲がっているので、一瞬で見えなくなってしまった。
徳川が階段を降りると、その階段が曲がっている場所のすぐ先に、男が女性の肩に手を添えてゆっくりと降りている姿があった。
 
 
男は徳川の気配に気がつき、後ろを振り返った。
「あっ!徳川くん・・・。」
桜崎は、びっくりした様子で徳川の顔を見上げた。
その声に反応し、妻の百合子も松葉杖を肩に掛けたまま体をひねり、徳川の方へ顔を向けた。
「徳川くんじゃないか。そうそう、もう演奏は終わってしまった?」
桜崎は、早口で言った。

徳川は二人の顔を交互に見て、そして力なく言った。
「はい。もう終わってしまいました。」
 
 
 
 


               


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