「ローズウッド」の店内は、相変わらず人の話し声でざわめいていた。
店の従業員に案内され、桜崎と百合子はテーブル席についた。
他の席は、もういっぱいだった。

桜崎は、徳川に手招きして言った。
「徳川君、この席に一緒に座らない?」
「はい、すみません。ありがとうございます。」
徳川が恐縮そうに言うと、桜崎は間を空けずに言った。
「いやー、今日は遅くなってしまって悪かったよ・・・。8時には着こうと思って向かっていたんだけど、急に仕事の用事が出来てしまって・・・。」
そう言い掛けたところで、
「徳川さん、私、桜崎の家内です。初めまして・・・。」
百合子が桜崎の話の間に入り、そして続けた。
「あの、じつは、私が駅の階段で捻挫をしてしまって、遅くなってしまったんですよ。あの時、捻挫しなかったら、もしかしたら間に合っていたかも知れないのに・・・。本当に残念です。桜崎も、徳川さんの演奏、とっても楽しみにしていたのに・・・。本当に、ごめんなさい。」
「あ、桜崎さんの奥さんですか・・・。初めまして。僕の方こそ、僕の演奏時間で急がせてしまって、お怪我までされて・・・、すみませんでした。」
徳川は肩をすくめながらそう言い、続けて言った。
「あの、でも、今日の僕の演奏は最悪だったんです。せっかくのチャンスだったのに、演奏にぜんぜん集中出来なくて・・・。返って、聴いて頂けなくて良かったです。」
そう徳川が言った途端、桜崎は急に顔をしかめ、テーブル越しに向き合っている徳川の顔を直視しながら言った。
「徳川くん!僕達は、今日いろいろな事があったが、君の演奏を聴きたいがために、一生懸命、タクシーを走らせて駆けつけたんだぞ!それを、『聴いて頂けなくて良かった。』なんて、なんて事を言うんだ。妻だって怪我までしているんだ。それ程、君の演奏を聴こうと必死だったんだぞ!僕は君の演奏がどうであろうと、そんな事は関係ない。それは君の問題だろ!」

近くのテーブルに座っていたお客が、その声に驚き、一斉に桜崎の顔を見た。
そして更に、他のテーブルのお客まで、その雰囲気が伝わった。
 
「すみません・・・。」
徳川は、桜崎の顔から目を逸らして、下を向き言った。
百合子が慌てて、二人の間に入った。
「あなた、そんなに荒立てないで下さい。怪我したのは私が悪いんですから・・・。それに、徳川さんの気持ちとても解りますよ。私も子供の頃からピアノをやっていましたから・・・。」
そう言うと、バッグからハンカチを取り出した。
百合子は、泣いている。
 
「いや、奥さん。せっかく来て頂いたのに、僕は失礼な事を言ってしまいました・・・。
桜崎さん、本当にすみませんでした・・・。」
徳川は、桜崎の顔をちらっと見た後、百合子に向かい言った。
桜崎は、黙っている。
 
 
しばらくの沈黙の後、桜崎が周囲を見渡し、小声で切り出した。
「あ・・・、いや・・・、つい感情的になってしまい申し訳なかったよ。悪かった・・・。」
そして、徳川の肩をポンと叩き、続けた。
「人間は誰だって完璧ではないんだよ。調子の良い時も悪い時もあるよ。特に音楽はとても繊細なものだと思うから、感情に左右される事もあると思う。」
徳川は、真剣な表情で桜崎の話を聞いている。
桜崎は、更に続けた、
「でもね。それだから音楽は面白いんだよ。その時の人間そのものが出るのだからね。そう、内容が良い悪いなんて関係ないんだよ。徳川君の、その時の演奏が聴ければ・・・。」
桜崎の話をじっと聞いていた徳川は、目頭が熱くなり、涙をこらえていた。
 
 
さっきの桜崎の声で、周囲のテーブルにいるお客は、桜崎達の会話に注目していた。
会話は、ライブハウスのBGMの音に邪魔され、途切れ途切れにしか聴こえなかったが、この会場内で何が起こっているのかは、容易に想像出来た。
勿論、2つ離れたテーブル席に座っていた紀香も気にしていた。
心配になり、堪りきれずに徳川のところへ近づき、言った。
「徳川くん・・・。なんか、しんみりしちゃってるけど、どうしたの?」
「いや、別になんでもないよ。」
と、徳川は言い、紀香の顔をちらっと見た。
「こちら、座っても良いですか?」
紀香は、そのテーブル席の空いている椅子に腰掛けながら言った。そして、
「あ、初めまして・・・。わたし・・・。」
と言いかけたところで、徳川が間に入った。
「あの、僕の彼女なんです。えーと、前にちょっとお話したと思いますけど・・・。」
「あー、なんだ、そうだったのか。徳川君からは、いつもお惚気話を聞かされて困っているよ。はっはっは・・・。」
桜崎は紀香を見ながら、顔をほころばせながら言った。
すると、百合子も、ハンカチをバッグに納めながら、
「まあ、今日は彼女さんとご一緒だったのね。私達、お邪魔しちゃったわね。うふふ・・・。」
と言って笑った。

「ちょっといいですか?」
と、桜崎夫婦に会釈した後、紀香が徳川に小声で言った。
「あのね。今夜は、勝木校長が来ているのよ。」
そう言いながら、紀香は向きを変え、小さく指を指した。
「あっ、ほんとだ!」
徳川はびっくりした顔をして言った。
「あれ・・・、ぜんぜん気がつかなかったよ。じゃあ、さっきの僕の演奏、聴いていたのかなあ。」
「うん、聴いていたよ。だって一緒に聴いていたんだもの。ジャズビーツの帰りに一緒に来たんだもの。」
「えっ、そうだったんだ。じゃあ、挨拶しに行かなくっちゃ・・・。」
徳川がそう言い、席を立とうとした時、ミュージシャン達がステージに向かい、ステージにはスポットライトが照らされた。


「皆さん、お待たせしました。これから第二部の演奏をお送りします。」
リーダーの矢嶋誠一が、マイクを通して言った。
そして矢嶋は、ステージに一番近いテーブル席に座っている人に手を向けて言った。
「じつは、今夜は、このライブに、僕の恩師が来ております。」
そう言い、そのテーブルに近づき、続けた。
「一曲弾いて頂けますか?」

勝木は、すっと立ち上がり、お客さんに会釈をした後、ピアノの椅子に座った。
そして、他のメンバーと演奏する曲の打ち合わせをした後、すぐに曲は始まった。
曲は、ジャズのスタンダード曲『イエスタデイズ』だった。
マイナー調で、とても哀愁の漂うメロディだが、それをスイング感溢れるミディアムテンポのビートで演奏していた。

勝木のピアノは、次第にテンションを上げ、最高潮に達した。
 
と、その時、ライブハウスに、電話のベルの音が鳴った。
店主が電話の受話器を上げた。

「はい。ローズウッドですが・・・。」

電話先の相手は、言った。

「お店までの行き方を教えて下さい。」
 
 
 
 
 


               


inserted by FC2 system