徳川は、ピアノの鍵盤に指を乗せた。
そして、静かに、曲を弾き始めた。
バラードの曲だった。
曲調は長調だが、どこか哀愁のある曲だ。
物悲しさが、場内を埋めた。
 
語りかけるようなメロディーだった。
すべてのお客が、その旋律に聴き入っていた。
 
徳川は、うつむき、目を閉じて弾いている。
その時、徳川の目に、一瞬、光るものが見えた。
それは、はっきりとは、場内からは見えなかったが・・・・
 

曲は、佳境に入った。
メロディーは、次第に力強く、激しさを増した。
 
そして、終止符は、静かに、何かの「言葉」を残して、終わった。
 
 
場内からの拍手が起こるまで、少しの間、時間が掛かった。
それは、3秒程だったと思う。
でも、その「無音」の時間は、とても長く感じられた。
 
次の瞬間、場内から割れんばかりの拍手が湧いた。
 
紀香は、泣いていた。
 
徳川は立ち上がると、場内に向かい、深々とお辞儀をした。
 
 
 
徳川がステージから降りると、勝木校長が、まず最初に徳川に近寄った。
「すごく良い演奏だったよ。最近、腕を上げたな徳川君・・・。」
その言葉に、徳川は照れていたが、
すぐ、その後に、桜崎が駆け寄った。
「徳川君の演奏、本当に素晴らしかったよ。感動したよ。今日は、本当に、徳川君の演奏を聴けて良かった・・・・。」
と言い、握手をしながら、目にいっぱいの涙を浮かべていた。
その、すぐ後ろに妻の百合子が居たが、彼女も泣いていた。
 
ライブハウスのお客の全員が、徳川の方に視線を向けていた。
お客はそれぞれ、徳川の演奏の感動を口にしていたので、場内には小さなざわめきがあった。
矢嶋が再びステージに上がり、マイクを持った

「皆さん・・・。」

その声で、ざわめきはピタリと止んだ。
 
「皆さん、今日は僕のトリオのライブを最後まで聴いて頂きまして、本当にありがとうございました。今日のゲストは、僕の師匠の勝木知彦先生と、そして、最後に素晴らしいピアノソロを聴かせてくれました徳川大周君でした。いやー、それにしても、最後が素晴らしい演奏だったから、徳川君には美味しい所ぜーんぶ持って行かれちゃったなー!」
場内からは、ドっと笑い声が一斉に湧いた。
 

「クーリーズ」の店長、久米忠之は、桜崎夫妻の所へ行き、微笑みながら言った。
「桜崎さん、今日は徳川の演奏が聴けて良かったね。しかもオリジナルを聴けるなんて、ラッキーだったね。それにしても、あいつ、ピアノ凄く上手かったね。」
「いやー、店長さんのお陰で、今日は本当に良かった・・・。徳川君の演奏を聴けて良かったよ・・・。」
桜崎は、満足した表情で言った。
すると、久米は、
「そうだよね。あの時、もし、僕が桜崎さんに電話しなかったら、僕はここに居なかったんだからね・・・。しかも、ライブが終わる前に来れて、本当に良かったよ・・・。」
 
 


徳川が「クーリーズ」で2週間前の金曜日に遅刻をしたあの日、桜崎との会話を何気なしに聞いていた久米は、2週間後の今日の夜9時頃、気になって桜崎の携帯に電話していたのだった。
息を切らし、「急いでライブハウスへ向かおうとしているが間に合わないかも知れない。」という桜崎の話を聞き、久米は慌てて自分の仕事を済ませ、この恵比寿のライブハウス「ローズウッド」に電話して、尋ねて、駆けつけて来たのだった。
入り口の店員に、桜崎が徳川の演奏を聴けたかどうかを聞き、聴けなかったという事を知ると、その場で「アンコール!」と大声で叫び、そして、恥ずかしさを押し切ってステージに行き、リーダーの矢嶋に、徳川の演奏をさせるよう頼んだのであった。
元々久米は、常連客である桜崎とは、よくお店で親しく話す機会が多かった。
その中で徳川の話題もあったが、徳川のピアノの才能を良く知る久米は、徳川が何とか一流のピアニストに成長するよう、いつも応援する気持ちがあった。
しかし、徳川の今の生活状況や音楽をやる上での環境の悪さを良く知っていたので、何とか力になれないものかと桜崎に相談していた。
そして、桜崎は、とにかく徳川の音を聴いてみたいと、ずっと思っていたのだった。
だが、徳川は、なかなかライブ出演するチャンスがなかったので、今日の日というものは、とても貴重なものだった。
 
 


桜崎は、今日の徳川の演奏を聴いて、ある事を決意していた。

だが、その事が、この先、大変な事を招いてしまう結果になるとは、誰もが知る由も無かった。

 
 
 
 
 
 




               


inserted by FC2 system