「もしもし・・・。」

徳川が、携帯電話を耳にあてると、聞きなれた声が返って来た。
「あ、店長ですか?」
「ああ、徳川か。ちょっと話があるんだけど、今大丈夫か?」
店長は、早口で言った。
「あ、はい・・・。ちょっと待って下さい・・・。」
久米店長の声が聴き取りづらかったので、徳川は館内の雑音から避けようと、比較的静かな場所へ移動した。
「はい、すみません。何でしょうか・・・。」
「えーとね、桜崎さんが、徳川にちょっと話をしたいと言っているんだけど、明日のバイトの前に、2時間くらい時間をとれないかな?」
「はい、大丈夫ですけど・・・。何の話ですか?」
「それは、来てからのお楽しみだね。まあ、とにかく良い話だと思っててくれよ。」
「は、はい。分かりました。それでは、明日、何時に何処へ行けば良いですか?」
「そうだな。とりあえずクーリーズで待ち合わせて、それから、近くの喫茶店に行って話すか・・・。じゃあ、明日、夜9時でいいかな?」
「はい、分かりました。明日の9時に行きます。」
 
電話を切った。
 
 
 
 
翌日は、朝から徳川は落ち着かなかった。
「桜崎さん・・・、いったい何の話があるんだろう・・・。」
普段は自炊をしている徳川だったが、その朝は、近くのコンビニで弁当を買って食べた。
普段よりも2時間早く部屋を出なければならないので、その分、少しでも長くピアノの練習をしたかったのだ。
だが実際は、練習をしていても、桜崎の事が気になって、あまり集中出来ていなかったのだが・・・。
 
 
徳川は、いつものように自転車を走らせ、池袋の「クーリーズ」へ向かった。
もう10月に入り、夜風が少しづつ涼しく感じるようになって来た。
その涼しく心地よい夜風を感じながら、徳川は昨日の紀香の事を思い出していた。
 
 
「クーリーズ」に着くと、もう既に久米店長と桜崎は来ていた。
「おう、来たか。じゃあ行こう!」
久米はそう言うと、すぐに椅子から立ち上がった。
桜崎も立ち上がり、徳川に近寄った。
「この間のライブは、お疲れさま。とても良かったね。」
そう一言いうと、久米の行く方向へ歩き出した。
徳川も、それについて行った。

3人は外に出て、そこから歩いて3分程の所にある喫茶店に入った。
お店に入ると、コーヒーの香りがただよった。
「良い香りですね。」
思わず、徳川が言うと、
「いや、僕はコーヒーは飲まない方なんだけど、香りだけは、いつも、いいなぁと思うよ。」
と桜崎が言った。
本当に、落ち着く香りだった。
 
3人は、椅子に腰掛けた。
久米が真っ先にメニューを手にし、まず桜崎の方へ差し向けた。
「何を飲まれますか?」
久米がそう言うと、桜崎は、
「あ、僕は、紅茶にしようかな・・・。」
と言った。
徳川は、きょろきょろとお店の中を見渡している。
「徳川は、何にする?」
今度は、久米が徳川にメニューを差し向けると、
「あ・・・、はい・・・。えーと、僕は・・・。」
徳川は、不意を突かれたと言った表情をして、慌ててメニューに顔を近づけた。
「そうですね・・・。あ、僕は、コーヒーにします。」
 
ウエイターが3人の所に近寄り、テーブルに水の入ったコップとおしぼりを置いた。
「えーとね・・・。コーヒー2つと、紅茶をお願いします。」
久米が言うと、ウエイターは伝票に書き込み、会釈をして店の奥に歩いて行った。
 

「徳川君、今日はわざわざ来てくれてありがとう。」
桜崎が切り出した。
「いや、こちらこそ、どうもありがとうございます。」
徳川は、恐縮そうに言った。
久米は二人を交互に見て、言った。
「徳川、今日来て貰ったのはね。じつは、大事な話なんだ。じつはね、前から桜崎さんと話し合っていたんだけど、」
と、前置きし、
「徳川の今の生活状況を考えると、なかなか練習時間もとれないと思うし、音楽の道を志すには良い環境ではないと思うんだ。お前はピアノの才能もあると思うし、それに人並み以上の努力もしていると思うから、なんとか頑張って欲しいと思っていたんだ。」
久米はそこまで言うと、ライターで煙草に火をつけた。
「それで、桜崎さんに相談してみたんだ。」
久米は、煙草の煙を吹かした。
徳川は、テーブルの一点をじっと見つめながら久米の話を聞いていた。
 
久米は、続けた。
「俺は、ずっと前から桜崎さんにこの事を相談していたんだけど、実際に徳川の演奏を聴いて貰わなければ始まらない・・・。しかし、なかなか徳川の演奏の機会がなくて困っていたんだ。でも、この間、やっと桜崎さんに徳川の演奏を聴いて貰う事が出来た・・・。」
久米は、また煙草の煙を吹かし、今度は桜崎の方を向いて言った。
「桜崎さん、お願いします。」

桜崎は、身を前に乗り出し、テーブルに肘をついて、話し始めた。
「そう。以前から久米さんには徳川君の話をいろいろ聞かされていたんだけどね。この間やっと演奏を聴かせて貰う事が出来て、凄く感動したよ。本当に、素晴らしかった・・・。」
 
桜崎が話している時、ウエイターがコーヒーと紅茶を運んで来た。
 
「紅茶のお客様はどちらでしょうか・・・?」
ウエイターがそう言うと、桜崎が小さく手を前に出し、言った。
「はい、こっちです。」
ウエイターは、残りの二つのコーヒーを、久米と徳川の前に置いた。
 
久米は、コーヒーをすすり、また煙草を吹かした。

徳川は、ちらっと久米の方へ目をやり、そして、桜崎の方へ目を移した。

 

桜崎はしばらく黙っていたが、一呼吸して、唐突に言った。

「徳川君、アメリカへ行かないか・・・。」
 
 
 
 
 
 




               


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