「僕は、アメリカへ行くよ・・・・。」
 

受話器の向こうから、しくしくと泣く声が聞こえる。
紀香は、ただ、ずっと泣いていた。


10分程経ち、ようやく紀香が語り始めた。
 

「わかったよ・・・、徳川くん、気をつけて行って来てね・・・。今までの徳川くんとの楽しかった思い出、忘れないから・・・。ちょっと遠くになっちゃうけど、ずっと応援してるよ・・・。私、本当に、凄く悲しいよ・・・、でも、徳川くんにとって、その方が良いんだという事、わかってる・・・。私の事は気にしないで、アメリカ行って、悔いが残らないように頑張って欲しいな・・・。」
紀香はそこまで言うと、呼吸を整えるかのように息を吐き、力なく言った。
 
「今まで、どうもありがとう・・・。」
 
徳川は、胸が苦しく、すぐに返事が出来なかった。
しばらくして言った。
 
「僕こそ・・・、どうもありがとう。」
 
 

電話は、プツリと切れた。
 
 
 
 
 
 

翌日、徳川は桜崎の会社に電話をした。
 
「はい、桜崎建築設計事務所ですが。」
受付の女性が、明るく応対した。
「・・・えーと、桜崎社長さんは、いらっしゃいますか?」
前日の夜は、徳川は一睡も出来ず、意識がもうろうとしていた。
「あの、失礼ですけど、どちら様でしょうか?」
徳川とは対照的に、受付の女性は。ハキハキとしゃべった。
そのはっきりとした口調に、徳川はハッとして、慌てて言った。
「あ、あの、徳川と申します・・・。徳川大周です。あの、社長さ・・・。」
徳川が話し終える前に、電話は社長の桜崎へ転送されていた。
 
「どうぞ。」
そう、交換係が言うと、すぐに桜崎が電話に出た。
「やあ、徳川君、おはよう。」
「おはようございます・・・。」
「で、考えはまとまったかな?」
桜崎は、穏やかな口調で言った。
 
「はい。桜崎さんにお世話になろうと思います。どうぞ宜しくお願いします。」
徳川は、言葉を選んで、粗相のないように言った。
「そうか、じゃあ、ニューヨークへ行く決心がついたんだね?」
徳川の脳裏に、一瞬、紀香の顔が浮かんだが、勇気を出して言った。

「はい。」
 
 
 

徳川のニューヨーク行きが決定すると、桜崎はすぐに、ニューヨークに住む親友の沖村道昭に電話した。
前々から、徳川の話を桜崎から聞いていた沖村は、その徳川の返事の確認だけで、すぐに用は足りた。
桜崎との電話を切った後、沖村は、すぐに、ピアニストのジェフ・イートンに電話した。
ジェフは、すぐに了解してくれた。
 

そして、徳川のニューヨーク行きの日は、19981222日に決定した。
 
 
 
 
出発の前日、クーリーズの店長久米が幹事となり、徳川の送別会を行った。
場所はクーリーズを貸し切りにして、勝木校長をはじめ、桜崎夫妻、矢嶋先輩、専門学校の友達、バイト仲間たち、中学時代の音楽担任の乙部教師、徳川の二人の兄と、そして妹・・・。沢山の人が集まった。
だが、その中に紀香の姿はなかった・・・。
 
 
「おい、徳川、頑張って行ってこいよ!」
矢嶋が、少々酔っ払った口調で言った。
「はい。頑張って行って来ます。」
徳川は笑顔で言った。

「だけどさー。徳川くんは、早速、クリスマスをニューヨークで、ムーディーに過ごすんだよねー! いいなぁー・・・。」
バイト仲間の、仲根優子が言った。
 
徳川は、その瞬間、以前に紀香と約束した言葉を思い出した。
 

 

「ねえ、徳川くん・・・。今年のクリスマスは一緒に過ごせるかなぁ。」

「そうだね。何処か夜景の綺麗な場所で、一緒に過ごしたいね。」

「どこがいいかなぁー。そうだ、お台場に行きたいなぁー!」

「うん、いいね。じゃ、そうしようか!」

「ね、約束しよっ!」

「うん、約束だよ・・・・。」

 

 

 
 
「徳川くん、どうしたの? 急に暗くなって・・・。」
優子が、心配になって言った。
その声に徳川は、ハッとなった。
「あ・・・、ごめん。ちょっと、考え事をしてて・・・。」
徳川は、ビールを一気に飲み干した。
 
優子は、徳川の顔をしばらく見つめていた。
 
 
 

「どうも、初めまして。徳川にピアノを教えていた勝木と申します。この度は、徳川が本当にお世話になります。」
勝木が桜崎に近づき、挨拶をした。
「あ、以前恵比寿でのライブの時にピアノを弾かれた校長先生ですね。あの時、とても素晴らしいピアノを弾かれたのを、今でもはっきりと覚えていますよ。いや、お世話だなんて、そんな、たいした事ではないですよ。でも、徳川君には、大きく羽ばたいて欲しいなと言う強い気持ちがあります。」
桜崎は、徳川の専門学校校長直々の挨拶という事を意識してしまい、少々緊張気味で言った。
隣にいた百合子も、勝木の方を見て会釈をした。
「あ、私の妻の百合子と申します。」
桜崎が、空かさず言った。
すると、勝木は一瞬百合子の足の方を見て、
「あの時は確か、松葉杖をついていましたよね・・・。もう大丈夫なんですか?」
と言いながら、百合子の顔を見直した。
「ええ、お陰さまで、もう松葉杖なしで歩けるようになりました。それにしても、あの日は、ライブに間に合うようにと急ぎ足で歩いたのですが、駅の階段で捻挫をしてしまって、結局遅れてしまい、皆さまには大変ご迷惑をお掛けしてしまいました。」
百合子が、恐縮して言うと、
「いや、あの日は、奥様が怪我されて遅れて来なければ、徳川君の、あの感動的な演奏を聴く事は出来なかったでしょう。そして、その演奏を桜崎さんが聴いて、今回のアメリカ行きを推薦して頂いたのですから、これは凄い事だと思います。もしかしたら徳川君は、そう言った運命を持った人間なのかも知れませんね。」
勝木は、そう言うと、手に持っていたワインを口にした。
 
 

送別会は、終わりに近づいた。
集まった人達は、それぞれに徳川に近寄り、お別れの挨拶をしていた。

徳川はみんなに囲まれ、励まされた。
そして、専門学校での事、アルバイトでの事、いろいろな思い出の中で、涙した。
 
 


送別会の帰り道、徳川は一人、池袋駅から歩いて自分のアパートに帰った。
一人で、ゆっくりと歩きたい心境だった。
途中、小雨が降り出したが、傘はない。
そのまま、濡れて歩いた。
12月の雨は、肌を貫くほど、冷たかった。
雨がまぶたから滴り、街灯の明かりを滲ませた・・・・。
 
 

一時間ほど歩き、アパートに着いた。
既に引越しを済ませている部屋の中は、何も音もなくガランとしていた。
徳川は、シャワーを浴び、凍った体を温めた。
風呂場から出て、明日の身支度を済ませ、寝袋に包まった。
 

寝袋の中で横になっていたが、なかなか眠れない。
目を閉じると、思い出が走り抜ける。
紀香との思い出・・・・。

それを思い出すと、息苦しくなった。
 

慌てて寝袋から出た。
窓を開けて、雨の降る夜空に向かって大きく深呼吸をした。
寒さが身にしみて、また寝袋に包まった。
 
寝ては息苦しくなり、起きて窓を開けると寒くなり、
それを、何度も繰り返した。
体が、ガタガタと震えた・・・。
 
 
 

と、その時、携帯電話のベルが鳴った!
 
 
 
 
 

 
 



               


inserted by FC2 system