紀香は、しばらく呆然として、徳川が消えた通路を見ていた。
そして、30分が過ぎた。
紀香は、その場所から離れる事が出来なかった。
涙が止め処もなく溢れ出る。
目の前は、霧のようにかすんだ。
 

45分も過ぎただろうか、紀香はゆっくりと後ろに向きを変え、静かに歩き始めた。
今にも止まってしまうのではないかと思う程の足取りだった。
 
紀香は、徳川との沢山の時間を思い出していた。
ひとつひとつ、かみ締めるように・・・
 
紀香にとって、徳川のニューヨーク行きは、どうする事も出来ないことだった。
何を言っても、彼には硬い意志があった。
紀香にとって、それは、どの女性達よりも大きなライバルだった・・・・
 
 

「徳川くん、さようなら・・・」
紀香は大粒の涙を流すと、ぽつりと小声で言った。
そして、紀香はしばらくゆっくりと歩いていたが、急に心を振るい払うように駆け出した。
「もう、いいんだ・・・。」
「もう、終わったんだ・・・・。」
「私、頑張ろうっと・・・。私、きっと、もっといい人見つかるよ・・・。」
「頑張ろうっと・・・・・。」
 
 
紀香は、無意識に、徳川とさっき来た通路を走っていた。
いや、心の底に、意識があったのだろう。
通路を走る紀香の視野に入る景色は、すべて徳川とさっき一緒に歩いた景色だった。
ついさっき見た場面が、紀香の目に飛び込んで来る。
一こま一こまが、鮮明に映し出された。
紀香は、その一こま一こまの徳川と歩いた景色を次々に消し去るように夢中で走った。
 
 
 
紀香は、息を切らしながら、やっと第2ターミナル中央口に出た。
目の前に、タクシーが走る。
タクシーが通り過ぎた後の風がとても冷たく感じた。
 
その時、飛行機の離陸する音が近くで聞こえた。
紀香は慌てて空を見上げた。
だが、ターミナルの建物が邪魔して、飛行機が見えない。
「この飛行機の音は、もしかしたら徳川くんが乗っている飛行機なのかも知れない・・・。」
紀香はそうつぶやくと、その飛行機を見ようと、その音のする方向へまた走った。
音はどんどん遠ざかって行く。
 
次第に小さくなり、そして聞こえなくなった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その頃、徳川は離陸時の飛行機の振動に揺られていた。
そして徳川は、振動に揺られながら小さな窓から斜めに見える景色を眺めていた。
成田空港周辺の景色は、昼間の太陽に照らされて、とても綺麗だった。
窓から見える景色は、一面を田んぼや畑で覆われていた。
地上の景色がだんだん遠ざかって行く。
徳川は、その景色を見ながら、紀香との思い出も同時に遠ざかって行くような気がして、もう後戻り出来ない現実に大きな不安を覚えた。
「いや、後戻りしてはいけないんだ・・・。」
徳川は、そう自分に言い聞かせた。
 
 
飛行機は、一瞬大きく揺れた。
気がつくと、いつの間にか雲の中に入っていた。
細かい振動が続く。
振動が消えたと同時に、飛行機の中に光が差し込んだ。
「ああ、雲の上に出たんだ・・・。」
徳川は初めて乗る飛行機に、感動を覚えた。
見渡す限りの雲海に、徳川は明日からのニューヨークの生活を夢抱いた。
「新しい生活が待っているんだ・・・・。」
そう思った瞬間、今までの日本での生活が、とても小さく感じた。
徳川は、さまざまな記憶が次第に消えてしまうのではないかと思った。
 
「紀香さん・・・・。」
徳川はそう呟くと、静かに目を閉じた。
そして、そのまま眠りについた。
 
 
 
 
 
「お食事は、肉料理と魚料理、どちらになさいますか?」
客室乗務員が隣席の男に尋ねた。
「はい、肉料理でお願いします。」
隣席の人は、少々大声で答えた。
その声で、徳川は目が覚めた。
徳川が目を擦りながら辺りをキョロキョロしていると、客室乗務員派は微笑しながら言った。
「お食事は、肉料理と魚料理、どちらになさいますか・・・?」
「・・・・」
徳川は一瞬、何を聞かれたのか分からなくて戸惑ったが、隣席のテーブルに機内食が置かれてあるのに気づき、慌てて言った。
「あ・・・、僕も肉料理にして下さい・・・。」
 
 
機内食は、とても美味しかった。
一週間入院していて、毎日病院食を食べていた徳川にとって、機内食はご馳走だった。
「美味しいなぁ・・・。」
と徳川が思わず口走ると、隣の男が言った。
「そんなに美味しいんだったら、こっちのも食べるかい?」
振り向くと、男は微笑みながらこちらを見ていた。
「あ、はい、でも、いいんですか?」
徳川が恐縮して言うと、
「ああ、俺は呑むと、どうも食べたくなくなってしまってね。」
男はそう言いながら、右手で缶ビールを突き出した。そして続けた。
「もし良かったら、俺と一緒に呑まないかい? どうせ長旅なんだし・・・」
「あ、すみません・・・。じゃ、少しだけ・・・。」
徳川は、缶ビールを受け取った。
 
 
徳川はその男と、呑みながらいろいろな話をした。
初めは世間話をしていたが、次第に、男は身の上話をしだした。
「俺ね、ニューヨークに一人娘が居てね・・・。娘は今度結婚するんだよ。で、その結婚式に行くんだけど、今までずっと会う事が出来なかったから、本当に楽しみでね・・・。」
「それは、おめでとうございます。なかなかお会い出来なかった上、今度はご結婚のために娘さんに会われるのだったら、それは喜びもひとしおですね。それじゃ、改めて乾杯しましょう。」
その男は少々照れ臭そうな顔をしたが、徳川の顔を正面からみる様に体の向きを斜めに変えて缶ビールをかざした。
徳川も、それに合わせて、缶ビールをかざし、祝福の乾杯をした。
 
そうして時間が過ぎて行ったが、その男はかなり飲んだらしく、いつの間にか寝ていた。
徳川は、幸せそうな顔をして寝ているその男を横目で見ながら、ふと気づくと紀香の事を思い出していた。

「僕は、あのまま日本にいたら・・・、ニューヨークに行く事を考えなければ、紀香さんと、いつか結婚していたのかな・・・・。」
そう、小声でつぶやくと、目を瞑り、そして、また眠りについた。
 

 


               






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